BIWA-YOU

『琵琶謡』とは、徒然を謡うこと。写真と、日々思うことを。      そして、できるならば詩や小説も書き綴りたいと思いつつ・・・。

もしも

震災がなかったら、今も父は生きているだろう。
原発事故がなかったら、今も父は生きているだろう。
震災だけだったら、父は、今も生きているだろう。
震災の年の春、庭に毎年芽吹くアスパラガスを採ってきて「食べな」と父は言った。「冗談、食べちゃダメだよ、捨てなよ」と私たち。「なんでだ」と父。「放射能が入っているよ、食べられないよ」と私たち。「なんでだ」と食い下がる父。「将来、がんになるかもしれないんだよ。私たちをがんにしたいの?」
父は庭いじりが好きだった。草木を育てるのが目的ではなく、草むしりを朝から晩までやっているのが好きだった。片脚が不自由になっても、それだけは止めなかった。
放射能物質が私たちの街に降って、世の中の心無い人たちが、我が家の目の前の大きな公園はホットスポットだ、危険だ、そんなところに行くなんて正気じゃないって、無責任なツイートしている時、私の家族はそこで生活していた。
子供がいる世帯ではないから、深刻な状況の家庭ではなかったけれど、目に見えて「冷えていく街」は、若者だけでなく、老人にだって辛い思いをさせたと思う。活気のある頃の街を知っている老人の方が、若者よりも、もっと哀しみを感じたのではないだろうか?
「不安」だけが先歩きして、人は街を歩かなくなった。桜が満開の公園は静かだった。父も、庭に野菜の種を蒔かなかった。家庭菜園にはひまわりとマリーゴールドが咲いた。父は、庭に出なくなった。
すぐには倒壊しない、だけど壊すしかない建物は、長らくほって置かれた。
原発事故がなかったら、もっと早くにそれらは壊されたろう。だけど、原発事故で混乱した自治体、原発事故に怯えて補充されない人員に、街は長らく震災直後のままだった。
「絆」とかなんとか綺麗ごとをマスコミが宣伝して、「日本人ってすごい」という幻想を造る中、現実の街は、世間から捨てられていた。
時間が止まり、冷え切った街で、身体に衰えを抱えた父は、心を病んでいった。
普通、病みかけの心は、打てば響く。悪い方へも引っ張ってしまうことがあっても、良い方へ引っ張ってくることもできる。ところが、病んだ心は、何をしても、言っても、何も帰ってこない。ただただ、追い込んでしまうだけになる。
何かを言ってはいけない状況になっていった。
父の身体的な衰えは、薬で回復も緩和も可能だったから、入院と投薬で父は回復していった。でも、それは、父が抱えていた心の重石が、ひとつだけ軽くなっただけだったのだろう。
どこかで、生きるのを諦めたのではないだろうか。
街と共に生きてきた人だから、諦めざるを得なかったのではないだろうか。
もしも、もっと父の心に希望があれば、心臓の苦しみも超えただろうに。そう思う。
地元の新聞には「再興」という言葉が並ぶ。「復興」という言葉は書かれない。
善人で悪人の人々は「復興」が済んでいると思う人がいる。
善人で悪人の人々は「脱原発」を唱えることが、私たちの街のためになると思っている。
本当は、自分たちの気持ちを収めたいだけの「あなたたちのため」という言葉が、私たちの街を「冷やし」て行く。
震災も、原発事故も父を死なせた。
震災後の世の中すべてが、父を死に向かわせた。
なんで私は、そんな父を死なせる原因となった社会の中で生きて行かなきゃならないんだ?
私は「再興」という言葉を見るたび、「再考」という言葉を重ね合わせる。
私たちの街は失われてはいない。原発の事故が私たちの街の「灯」を消しただけだ。
「再考」する。
それは、街だけの話じゃない。
もっと大きな「再考」を私は願う。

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肩書きの呪縛

父は経済という場所で生きていた人でした。
積極的に市や県の経済発展、コミュニティの財政面などに関わってきました。
その団体や企業がどのくらいあるのか、どんな内容に携わったのか、私にはわかりません。
父の最初の仕事場は東京都庁でした。中小企業診断士という資格がありますが、その資格を持っていた父は、祖父の一声で地元に戻ってくるまでの間、そういった仕事をしていたようです。そこで、多くの企業の課題を解決する中で自信を持っていったようだと(誰かに、誰に??)聞いたことがあります。
そして、一生、世の中の経済的な課題を解決し続けたのです。
父はそういう点でとても自分に自信を持っていました。
それだけの経験を持っていたことは確かです。
経済人としての父を否定しようとは思いません。
父がやっていたようなことが私にできるわけでもありませんし、尊敬する活動でした。
歳をとる中で父は、自分のことは誰でも知っている、俺はエライ、といった言葉を口にするようになりました。
家族が一緒にいる時も言うので、とても感じ悪いことこの上ありませんでした。
日本という国の経済圏が広がり、人口が増え、父が活躍できる範囲はだんだんに小さくなっていったのだと思います。小さな町のままであれば、父が言うように、父は誰にでも知られる存在のまま歳をとっていったかもしれません。
でも、世界は広がり続けていました。小さな町の経済人たちのコミュニケーションなど、たかがしれたものです。父の存在は井の中の蛙に過ぎないのです。
目に余る(耳に余る)その言動に、私は「○○の誰々」ではなく、「誰々」に戻るように、と父に言うようになりました。
そうしている内に、父の小学校から仲良くしていた友人たちが次々に亡くなりました。
母の認知症は悪化してゆき、会話ができなくなりました。
母のためにと、徐々にさまざまな団体に関わるのを辞めていった父でしたが、それは、「○○の誰々」であることにこだわる結果となっていったように思います。
この1、2年、私は「○○の誰々」ではなく、私たちのお父さんである「誰々」に戻るようにと言いました。そして、新しい友人をつくりなよ、と言いました。
父が首を縦に振ることはありませんでした。

肩書きが、私たち家族から父を奪っていきました。
他人に褒めてもらえる父親より、私たち家族が褒めてあげられる父親でいてほしかった。

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家族での旅行

私は末っ子だし、一番上の姉とは8つ、二番目の姉とは4つ離れているから、ある程度仕方ないのだが、子供の頃、家族が揃って旅行(2、3日の宿泊での)に行った記憶は、岩手、山形くらいしかない。
あとは、1泊だったり、日帰りだったり、誰かが欠けていたり。
姉たちが東京に出てからは、東京で家族全員揃ったりはした。
冬の京都だったかな、みんなが独立してから1度全員で旅行をしたことがある。
大きな問題点は、どの旅行も、旅行に行くのを楽しみにして行くのではなく、週末にどこそこへいくぞ、な急な旅行ばかりだったことだ。
友達と約束をしていたり、試験前だったり、常に自分の予定を犠牲にして父の旅行に付き合うことになった。
そう、父の旅行に付き合うのである。
京都の旅行は何故行きたかったのか知らないが、岩手、山形の旅行は、社員旅行のための下調べのために行ったのだと記憶している(いや、その逆だったのかも)。
いやいやながら行く旅行には、常に不満が残った。
そうすると、不機嫌な顔の写真が残る。
さまざまな場所に行ったこと、その地域の特産物などを、実際に行くことで覚えたことは感謝している。
でも、いつも心にはわだかまりが残った。
それは、山積みになるばかりで、減ることはなかった。

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ありがとう

父が心筋梗塞で亡くなった。
仲の良い家族ではなかった。いがみ合いばかり。
共に、相手をねじ伏せようとした。
昭和初めの生まれの父には、理想の父親像があったのだろうか?
そう聞いてみたことはない。
父が相手に望むことは、常に相手を下僕にすることだったから。
明治や大正、昭和初期の家長制度の時代が、彼の理想だったのだろうか?
家族の一人として、それを望まなかった。
私たちは、普通の家族でありたかっただけだ。
いや、家族というより、普通に、人と人のやりとりをしたかっただけだ。
せめて、
ありがとう。
その言葉が自然に口に出てくるような、そんなやりとりをしたかっただけだ。
家族以外には使っていたろうに。
どうして、家族には使いたくなかったんだろう?
ゆえに、いろんな面で、父は反面教師だ。
そんな点を、感謝しなければならないのは哀しい。
あなたが、私たちを守っていてくれていたこと、みんなちゃんと解っていたのに。
あなたは大切な家族。
だから、もっと仲良く暮らしたかったんだよ。
聞こえるかな?
ありがとう。
私のお父さんであることに、ありがとう。

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