BIWA-YOU

『琵琶謡』とは、徒然を謡うこと。写真と、日々思うことを。      そして、できるならば詩や小説も書き綴りたいと思いつつ・・・。

明日

『明日』

同じ明日が来ないって、
気が付いたのはいつだろう。
  記憶を辿るごとに
  ぽろり ぽろり と
  まぶたに涙で染め止めて
  色も 匂いも 音も
  もう ひとつも失いたくない
違った明日が怖いと、
思い始めたのはいつだろう。
  靴先を後ろに向けて
  ことり ことり と
  後ずさっては振り返り
  たくさん失って
  たくさん得ていたことに
  気付く
もう少し前までは、
壁を殴ってしまえば前に進めた。
今は、
ただ足踏みするばかり。
  同じ明日は来ない。
  思うような明日も来ない。
  でも、
  明日は来る。
  生きている限り。

2014/9/13初稿 春日原玖宮

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モノを書くことを考える

今日(8/3)、合唱団お江戸コラリアーずさんの定期演奏会を聴きにいきました。風邪を引いたら、最後の症状が「咳」となってしまい。冷気にあたるたびに咳き込むという状態だったので、聴いている間=咳を抑える、という状態で、ゆったりした気持ちで聴くことはできなかったのですが、谷川俊太郎の初期の詩を考える時間になりました。

谷川の詩を考えるというより、「天の断片」という雪についての詩のタイトルがあまりに格好が良かったので、このタイトルで詩を書くなら、私は何を書くだろう、と思いました。
高校時代、友人が「このタイトルで詩を書いて」と課題をくれたのを思い出したから。
たぶん、私が書くなら雪ではなく「光」で書くだろう、と。
さらに18歳の時の自分が書く詩と、いい大人になってしまった今の自分が書く詩と、どんな違いが出るのだろうか、と。たぶん、詩の「結」に違いが出るでしょう。でも、「起承転」は変わらないかな。なんとなく。
高校時代を振り返ると、「出来上がった自分」がいたな、と思う。
いい大人になったのに、考え方は高校時代のままっていう表現をすると、なんか哀しくなるけど、充実した高校時代を過ごした、と言い換えるといい言葉になるねぇ。

閑話休題。
コンサートプログラムには団員の方の解説がありました。
そこで疑問に思ったことがありました。
「詩人の書く詩は、人の心情を顕し、共感を呼ぶ」けれど、「詩人が詩を書く心情(行為)」はもしかして伝わらない、もしくは、あまり問題にされないもなのかな、と。多少なりとも「モノ書き」な私には、その違いは重要なのだけど、もしかして書かない人には気にならないことなの、かしら、と。

「モノ書き」の意識は、紡いだ言葉とは裏腹、たとえば美しければ美しいほど、腹黒な意識が働いています。どう書けば、伝わるか、どの言葉を使えば美しいか、恰好良いか、もっと違う視点はないか、こんな形式を使うのはどうだろう、などなど。
技巧に逃げてはいけないという話は、どんな世界にもあるけれど、まずはやってみて、自分のものにしてから捨てるのがいいと私は思う派、だったなーと、振り返ってみたり。

誰の詩を読むにしても、私にとってそれは「分解」すべき対象であって、自分の技術の中に取り込めないものか、と探る作業のひとつでしかないのかも。
「モノを書く」ことが私の人生の一部だけど、残念ながら「上手な文章書き」ではないなぁ。
「自分らしい言葉を紡ぐ」ができるようになりたいと思います。

~谷川俊太郎の詩のタイトルを借りて~
「天の断片」  春日原玖宮
  つかめないもの。
  朝八時、
  一日の始まりを教えてくれる
  カーテンから漏れる白い光。
  午後一時、
  髪の一本一本まで映す
  色濃い私の夏の影。
  午後三時、
  通り過ぎる車に反射した
  万華鏡のような光。
  夕五時、
  ざっと降った夕立の後に
  雲の間から漏れ射す光の束。
  夜中二時、
  ふと目が覚める闇。
  今日も明日も思い出せない。
  自分が誰かも思い出せない。
  ぎゅっと握った掌の中に、
  紅い光。
(推敲:2014/9/9)

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tenohira.jpg

どこか私の手に似ながら
掌の骨と骨の間の肉は失われ
細くなり
微かに震える手

かつて私を撫でてくれた手
ずっと私を守ってくれていた手

掴んだものを離さないよう
必死に握り続けようとする

ごめんね
私はぐいとその掌を開かせる
着替えができないから
次の動作ができないから
折れないで、とそう願いながら

一人
空を摘まんでは
何かを捨てようと繰り返しているその指先

何を摘まんでいるの?
何を捨てたいの?

記憶を?

ああ、それならば。
拾ってあげたい。

そして、どうか
私たちを思い出して。

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